オーストラリア開教地

無私: 2024年の活動より

[報告]  2026/10/13

2024年は、私がオーストラリアで法務を始めてから20年目となります。この間、法然上人の教えを広めるため様々な活動を行ってきました。その中で、私は人間理解の点で多くを学んだことを実感するようになりました。とりわけ、カウラと木曜島の日本人墓地で勤める法要から、「無私」の価値への気づきを得ました。その一例が、ニューサウスウェールズ州カウラに抑留された日本兵捕虜の方々の心情です。これまで2年にわたり、カウラ・ブレイクアウト・アソシエイションの要請により、カウラの日本人墓地に眠る日本兵捕虜のために追悼法要を勤めてきました。最近の訪問で、第2次世界大戦の厳しい背景の中で起きた彼らの脱獄の動機について新たな理解に至りました。

79年前カウラは戦争捕虜の収容所で、そこには1000名の日本兵が抑留されていました。1944年8月4日の深夜、彼らは近代戦争史上最大規模の脱獄を試みました。数時間の間に日本兵捕虜234名が銃撃により死亡、オーストラリア警備兵4名も落命するという悲劇でした。この脱獄事件に対する歴史家の見解は常に、「このような試みを無謀と知りつつも、日本兵達は虜囚の恥という国家主義に駆られて脱獄を試みた」というものでした。しかし、カウラでの追悼法要後のレセプションのスピーチで、元オーストラリア駐在特命全権大使の山上信吾氏はこの長年にわたり支持されてきた見解に対し一石を投じました。

「1944年、日本は既に困窮状態にあり、空襲により全国が被弾し、敗戦は差し迫っていた。人々は悲惨な食料不足に苦しみ、栄養失調と飢餓は常に喫緊の課題であった。若い日本兵捕虜達は日本にいる家族の窮状に心痛を受け、抑留の身とはいえ自分自身はオーストラリア軍によって十分食料を与えられ保護されていることに悩んでいたのであろう。彼らは日本に戻り、愛する家族を守りたかったに違いない。彼らの脱獄の動機は国家主義というより、むしろその家族への愛情と義務であった。」

私は山上大使の言葉に感銘を受けました。それ以来、こうした若い日本兵捕虜の墓地に向かい聖なる仏典を読経し念仏を称える時、私は普通の若者の笑顔を想像しています。彼らが必死にそのもとに帰ろうとした、家族の愛に包まれた笑顔です。

冬の気候のカウラでの法要の一週間後、私は木曜島の熱帯気候の中、日本人墓地でお盆法要を勤めました。ここには700もの墓石・墓標がありますが、カウラ同様ほとんどが若い日本人のものです。カウラの日本兵捕虜と同じく、彼らもまた日本の家族のもとへ帰れませんでした。ただし、彼らがこの島に赴いた理由は戦争ではなく、19世紀後半に始まった真珠産業でした。真珠漁潜水夫として資金を稼ぎ、日本の家族に送金するためです。しかし、当時の深海での潜水労働は非常に危険な仕事で、サイクロンと潜水病により何百もの潜水夫の命が奪われました。それにもかかわらず、「故郷の村にいる家族のより良い生活のために」という彼らの決心はひるむことはありませんでした。

私たちは「過去に学ぶべき」と言われます。カウラの日本兵捕虜や真珠漁潜水夫の行動を考える時、誰でも彼らの「無私」の精神を認識せずにいられません。この「無私」の精神から、彼らは自分の命を他者のために捧げる勇気を与えられたのです。現代に生きる私たちも彼らの「無私」の行いに大いに学ぶべきと感じます。

  • 一覧へ戻る