布哇日本人先亡慰霊祭
[報告] 2019/8/27
8月25日、ヒロ郊外アラエ墓地でハワイ島日系人協会主催の慰霊祭法要が行われました。
1939年アラエ墓地内に建立された「布哇日本人先亡慰霊塔」の前で毎年第4日曜日に行われているもので、今年は第80回でした。ハワイ島仏教連盟も毎年参加しております。
慰霊塔は阿部三次という日系人の発願によるものです。
阿部三次は1895年コナに生まれました。本格的な移民(官約移民)が始まったのが1885年で、その後形態を変えながら1924年までの間に日本人約20万人がハワイに出稼ぎに来て、半分ほどが定住しました。阿部は移民初期の2世です。第一次世界大戦時に米国で徴兵されたわずか400人弱の日系2世のひとりでした。
11-2歳のころ家族でヒロに移り、1916年にヒロ警察の警察官になりました。順調に昇進し、日系人初の副署長までのぼりました。勤務の傍ら大和座という映画館を買収して経営し、ハワイ島日本人野球連盟、ハワイ島相撲連盟、ハワイ島日系人協会などの長も務めました。1940年には米領ハワイ上院議員に立候補しました。日米関係はすでに険悪で、阿部は二重国籍であることを批判されたりしましたが、日本国籍を離脱し、当選しました。日系人では初めてでした。
1941年12月の日米開戦後、阿部は当局から「危険人物」と目されました。1942年、米国人でハワイ上院議員である阿部を逮捕するべく当局は阿部を捜索し、大和座で日本国旗を「発見」し、敵国の国旗を所持していた罪で逮捕、勾留され、上院議員を辞めさせられました。戦後は大和座に戻りましたが、1960年の津波でヒロ湾岸地域は壊滅し、大和座も閉鎖となりました。阿部はオアフに移り、亡くなりました。晩年は糖尿が悪化して盲目だったそうです。
慰霊塔が建ったのは、阿部が上院議員になる前のことです。阿部は荒れ果てた古い墓地に心を痛めておりました。
阿部は自身の勤続20周年を記念して1938年3月に大和座で「勤続二十周年墓地奉仕映画の夕」を開催しました。集めた1400ドル(当時の米国人平均年収は1731ドル)の使途について有志46名が大和座で会合を開き、7名の委員を選挙して墓地整備期成会を結成しました(委員のひとりはヒロ明照院第2世原哲雄上人)。期成会はハワイ島にある30の墓地の整備を目指しました。
慰霊塔は期成会の活動の目玉で、1939年に4千数百ドルをかけて建てられました。盛大な除幕式が行われ、阿部は「ハワイの二世・三世が恵まれた生活をなし得るのはわれらのパイオニアが粉骨砕身してハワイの開発に尽くしてくれた賜物に外ならない。」とかれらへの慰霊の重要性を述べて喝采された、と新聞にはあります。
長く顕彰されるべき人物であると思います。
文責 ヒロ明照院主任 宮崎潤心