ハワイ開教区

中野寛淳開教使のご遷化

[報告]  2020/7/28

私たちは、生きている限り痛みを伴う現実に直面することが多々あります。特に今年は、新型コロナウィルス感染の世界的流行や未曾有の大雨による大災害など、悲しいことが今も続いています。そのような状況下で、2020年7月10日、ハワイ浄土宗駐在開教使として4期10年を務められてきた中野寛淳開教使がクアキニ病院で遷化されました。

中野先生は、本年2月末に癌が見つかり、5月より抗がん剤による治療を現地にて受けておりました。別院で開教使を続けることを希望されておられましたが、単身で赴任されていることもあって、後ろ髪をひかれる思いで辞任、帰国を決断を表明。日本での治療の継続を望まれていました。しかし、普段から小食でいらっしゃることもあって、体が急速に衰弱。6月28日、中野先生は、自らの意思で救急車を要望し、直ちに緊急救命室へ運ばれました。先生は、自身の癌の進行状況について、我々にはずっと「大丈夫」と口にされてきましたが、栄養失調のために体は極度にやせ細り、緊急を要する状態であることが容易に察せられました。

7月3日、カウアイ島より中野先生を見舞いました。その時、初めて私は、先生の余命が長くて一カ月。8月まで生き残ることができないと通知されました。先生は、死期を察しておられたのでしょう。子供たちに会いたいと希望を表明されました。そして、普段いつも冷静な中野先生にはとても珍しいことですが、私にも再び来てほしいと望まれました。そして「ありがとう、皆さんによろしく」と伝言を私に託されたのです。難しい状況ではありましたが、子息の敦之さんと奥さんはすぐハワイに来る決断をされました。

しかし、日本からハワイへの直行便がないため、お二人がハワイに来るのは簡単ではありませんでした。また、ハワイはハワイ州外からのすべての旅行者に対し14日間の検疫命令が進行中で、病院には訪問者を制限する独自の規制もありました。しかし、クアキニ病院の慈悲深いスタッフとハワイ州より特別の計らいを頂いて、7月9日にグアム経由で到着された敦之さんと久美子さんは、私の案内で空港から病院へ直行し、集中治療室におられる中野先生を見舞うことができました。この時点で、先生の余命は風前の灯でありましたが、先生も最期の頑張りをされたのでしょう。親子の対面は、ぎりぎりのところで間に合いました。

しかし、私たちが午後9時20分頃にICUに到着したとき、先生は酸素投与を受けておられ、すでに話をすることはできませんでした。担当医は、今晩いつ息を引き取られても不思議ではない状況を説明されました。部屋に入ったとき、先生の目は閉じた状況にありましたが、私たちが先生に話しかけた直後に、先生は目を大きく開いて、それは翌朝、最期の息をとられるまで続きました。

日本語には「目は口ほどに物を言う」という表現があります。先生の目を見ている間、先生の目は何かを語っているように感じました。そして突然、思いつきました。中野先生に話が聞こえるか聞いてみたのです。「もし聞こえていたら、瞬きをして返事をしてください」と先生にお願いしました。驚いたことに、先生は私たちに瞬きを3回見せて、話を理解されていることを表明されました。自ずと涙が滝のように流れてきました。ご家族は、感謝のことばを口にされ、今回来られなかった娘さんと画面を通して対話されました。私も、先生がこれまで活躍されてきた仏教讃歌の演奏のビデオを先生の前に提示し、その後はひたすらお念仏を続けました。

日の出が近づくにつれ、脈拍数や血圧と思われる機器の数字はゆっくりと低下していくのが分かりました。数字が何を意味しているのかはっきりわかりませんでしたが、少なくとも「その時」が近いことは分かりました。敦之さんと久美子さんの掛け声が大きくなり、涙ながらの感謝の言葉が聞こえてきました。私も念仏の声に力が入りましたが、涙はとまりません。家族の愛、そしてメンバーやスタッフのやさしさによって、最期を看取ることができる感動と同時に阿弥陀様の来迎という大きな慈悲を感じました。午前5時5分、中野先生は、最期に大きな息をとられてから、静かに息を引き、往生の素懐を遂げられました。

これまで、枕経や臨終を何度も体験しましたが、目の前で死にゆく人の最期を看取ったのは今回が初めてでした。実はこれまで、何度かチャンスはあったのですが、いつも、最後の瞬間を逃したことを後悔していました。勿論、人がいつ亡くなるかは人知にはかり難く、最期を看取りたいと思って念仏を続けていても、時間的都合や体力的な限界もあり、どれくらいの念仏をもって、切り上げるかは、いつも難しい決断ではありました。臨終の方を見舞う時は、30分ぐらいであったり、時に1時間、2時間の時もありました。いつも念仏をひたすらお称えしてからその場を離れるのですが、おつとめしてから1時間以内、家に戻ったころにお亡くなりになったという連絡があったという体験が続きました。「あの時もう少し時間をとってお念仏を続けていれば最期を看取ることができたのに」という苦い経験があったのです。このことがバネとなって、今回は強い覚悟をもって先生の臨終にのぞむことができましたので、今、後悔はありません。ただ、正直なところ、将来もこのようなサービスをすべてのメンバーに提供できるかはどうかは自信がありません。しかし、今回先生の最期を看取ることができたことで、臨終の大切さ、そして少しでも人の役に立ちたいという思いを新たにいたしました。

本葬の日程は未定ですが、子息の敦之さん久美子さん参列による追悼会を8月2日(日)午前10時よりハワイ浄土宗別院で行う運びとなりました。コロナ禍で、室内の参拝は感染拡大の危険がともなうため、人数制限など限定的な法要になり、各開教使には、各寺での御廻向をお願いしております。

中野先生は、華頂短大で教鞭をとられマハヤーナ合唱団の指揮者をされていた音楽家で、浄土宗芸術家教会会員でもあられました。平成18年に加行を浄満され、平成22年3月22日にハワイ開教区へ赴任。以後、別院の音楽を一手に担当され、ピアノの演奏と瞑想、そしてお念仏の実践に力を入れられてこられましたが、美しい音に対するこだわりは人一倍持たれていたようで、先生の指導された日曜礼拝のお姿は、指揮者そのものでした。ここに、謹んで哀悼の意を表し、中野寛淳開教使のご遷化のご報告を申し上げます。

末筆ですが、川中光敎宗務総長様、宮林雄彦浄土宗責任役員様より早速、追悼のお言葉を賜りましたこと厚く御礼申し上げます。

合掌十念

石川広宣 拝

歓迎のあいさつをされる中野師

 

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